2008年12月25日木曜日

今年も有り難うございました。

みなさん久々のプログをかきます。

みなさんいかがお過ごしでしょうか?もうすっかり寒くなりましたが風邪をひいていませんか?
私は風邪をひいたんですがやっとなおり元気になりました。
もう12月にはいり、イブやクリスマス、各作業所の親睦会(忘年会)などたのしいことがありますが今年もあっという間にお正月がやってきますね。みなさん1年間どんな年でしたでしょうか?
私は、この1年間を振り返ってみると「早かったし肺炎ではじめて長期入院したことです」
それから目標をたてていたのですが実行できませんでした。
みんなに勇気付けられおおぜいのささえがあったおかげで1年間がおくれたんじゃないかなぁと感謝しています。ホームにも帰ってこれて生活ができてうれかったです。本当に心配や心遣いをしてしただき1年間有り難うございました。

来年度もなにとぞよろしくおねがいします。
どんな一年がはじまるのでしょうか?
私は来年の目標は、自分自身の体の体調管理をしっかりする。
来年もプログをよろしくね。
1年間お疲れ様でした。

2008年10月22日水曜日

鹿児島大学で講義に参加して

(下記に書いてある文書が当日鹿児島大学で講義でよんだ文書です。)


はじめまして 私のなまえは古川明美です。よろしくおねがいします。
いまから、私の自己紹介をしたいとおもいます。
私は、昭和53年7月21日 2600gで産まれました。
生まれつき「筋ジストロフィ」という障害をもって産まれました。
先生からは、母親に「このお子さんは、3、4歳まで生きられませんよ」と言われたそうです。
母親や父親は、きいて泣いたそうです。
それでも、母は、一生懸命、私を育ててくれました。あるけるようになるか?という検査入院をして手術をしたことがあります。その時のことは、あまりおぼえていません。
それから、私が幼稚園に通う前に母は妊娠をし「妹」が産まれました。私と同じ障害をもっていました。
私は妹ができてうれしかったです。妹と一緒に幼稚園に母親とかよいました。幼稚園は、障害児がいけるところでした。幼稚園では、保母さんとお散歩をしたり、おゆうぎをしたり、おかあさんたちの手づくりの給食をたべたり、月ごとの行事などをして楽しかったです。でも、私が通っていた幼稚園のとなりが普通の保育園でした。お友達が外を走りまわっていたり、遊具であそんだりしているところをみると、私は、こんなことをおもいました。「外で遊んでみたい・なんで走れるだろう。なんで障害児にうまれたんだろう」とおもいました。その頃は、バギーで行っていました。幼稚園のときに「くるまいす」をつくりました。
幼稚園を無事に卒園しました。


養護学校にあがり、学校に12年間かよいました。
小学校6年間、中学校3年間、高等部3年間 通学でかよいました。
小学校生活の中で楽しかったことは、勉強もたのしかったのですが6年生でいく「大分、熊本へ行く修学旅行」でした。運動会や学習発表会も楽しかったです。かなしかったことは、六年生の2学期にとってもかわいくて、なんでもお手伝いしてくれる、やさしい女のお友達がいましたが病気をこじらせて亡くなってしまいました。そのときはかなしかったです。くやしかったことは、学習発表会の時に先生から「せりふを言うのがゆっくりと」といわれたことです。運動会では、かけっこがびりになってさいごまでこいだことをおぼえています。うれしかったことは、五年生の時にはじめての「転校生」がきたことです。一緒にお勉強をしました。
無事に小学校6年間を卒業しました。

中学校生活のなかで楽しかったことは、3年生でいった「長崎、福岡の修学旅行」でした。くやしかったことは、生徒会に何回も立候補しましたがおっこちたこともあったことです。
無事に中学校3年間を卒業しました。
いよいよ義務教育がおわり高等部に入学しました。
高等部に入る時には、面接や試験などをしました。面接では、校長先生や、高等部の先生たちから「質問」がありました。試験では、教科ごとの試験でした。それをうけて、無事に合格し、高等部3年かよいました。高等部3年間の中で楽しかったことは、やっぱし3年生でいった「東京への修学旅行」でした。かなしかったこと・くやしかったことは、学習発表会の時に私がものすごくやりたかった役になれなくて先生を困らせ「学校拒否」をしたことです。むずかしかったことは、教科ごとに先生がかわり「勉強」がよくわかりませんでした。私は12年間の学校生活を送ってきて、楽しかったですがものすごくいやもありました。「早く卒業したい」とか「早く髪の毛をそめてみたい」と感じていました。
無事に高等部3年間を卒業しました。

養護学校を12年間通っていて卒業したときは、ものすごくさみしく感じたし先生に迷惑や心配ばかりかけたから、やりなおしができたらいいなぁとおもいました。
卒業してしばらくしてから、麦の芽福祉会の「虹のセンター」に1年ちょっと通所していました。そこでは、ワープロで住所打ちやバザーのねつけなどのお仕事をしていました。虹のセンターに就職したときが決まった時には、「幼稚園や養護学校のときの先ぱいや後輩とまた一緒にお仕事ができてよかった。」とかんじました。「初給料」をもらいうれしかったことをおぼえています。それからしばらくしてから、「いきいきセンター麦の芽」が開所して、私も虹のセンターから作業所を移りました。異動した時に「おおきな建物でどんなお仕事ができるのだろう。」とわくわくしました。開所してからずっと創作班でお仕事をしていました。コーヒーやパソコンうちなどしていました。今も、いきいきセンター麦の芽に通所しています。
私は9年間、創作班で作業していて「ちがう班での作業がしてみたい」というきもちがあり、今年、念願だった食品加工班に入り作業をしています。私が担当するところは、クッキーの作業では、卵ほぐしやトッピングの材料を数えたり、賞味期限がきをしたりします。お惣菜では、材料をよんだり、おもさを量ったり、うりこになったりと、ものすごく楽しいし売れた時にはうれしいです。作業や作業所での生活の中でくやしかったことは、やりたいことができなかったり、自分にあたえられたお仕事が1日で終わらなかった時です。
私は、家族とずっと住んでいて、学生の頃からいままで「ずっと1人暮らしをしてみたい」と思い続けてきました。そう思い続けていて平成18年4月、ようやく私の念願だった「1人暮らしを」する夢がかないました。私は親元から離れ、ヘルパーさんや職員のみんなと楽しく過ごせています。はじめは、なれなくて病気がちになり家に帰ったおもいでがあります。1人暮らしを決めたのは、「お友達やいろんな人とくらしてみたい」「親からはなれてくらしてみたい」「自分のしたいことや自由にうごいてみたい」といろいろなおもいがあったからです。最初は、母親は賛成していたけれど父親は、「ちょっと大丈夫か?」とものすごく心配していました。でも今は、いつも応援してくれています。今も、1人暮らしをつづけていても作業所にいきながら、楽しく過ごせて、1人暮らしを毎日まんきつした生活をおくっています。これも、おおぜいの方達のおかげだし麦の芽福祉会のなかまにはいれて、とってもしあわせです。
私はまいにちのようにお仕事や1人暮らしの生活を普通のようにしていました。
そんな中、私は「肺炎」になって一ヶ月半の入院していました。毎日てんてきにおわれ、起きられないぐらい、くるしいおもいをしました。毎日のように、たちかわりおみまいにこられ、「はげましてくれたり」ずっと職員がついていてくれました。私自身も肺炎で入院したことはありませんでした。鼻チューブになり、かぞくやおおぜいの協力のおかげで、ぶじに退院ができ、お仕事や1人暮らしもかいふくして、いまでもみんなに感謝しています。そして、いまは鼻チューブになり、毎日注入食になっています。実家に帰ってから口から「ミキサー食」をたべています。私は今は、生まれてきてよかったと感じています。
これが、わたしが産まれてからいままでの生きてきた日々の商会でした。

さいごになりましたが「みんなにメッセージがあります。
今日私の講義を聞いていただきありがとうございました。私も生きてきた中でいろんな体験をしてきましたが、障害を持ちながらも1人では何もかもできないと思ってたけれどみんなが「たすけてくれる」し「自分でもできるところは頑張っていけるんだ」と今日の講義であらためてかんじました。障害があってもなくてもみんなと一緒の生活ができるし障害者は明るくてお話がとっても大好きです。これから障害者やお年寄りをみかけたらどんどんとお話やお手伝いをしてあげたらうれしいです。
みんなは、いま勉強がとってもむずかしいと思いますが就職して、いろんなところに行かれ、いろんな経験をすると思いますが頑張って下ださい私は、鹿児島大学でおおぜいのまえで発表ができて、みなさんに私のような障害者にふれていただけて、発表を聞いていただけて嬉しく思います本当に有り難うございました。みなさんもまたどんどん障害者と交流ができたらうれしいです。私もこれからも障害者らしく自分の体の体調にあわせながら、がんばりたいとおもいます。これからもよろしくおねがいします。これからも今日は聞いていただき本当に有り難うございました。
他にも自己紹介や自分のプログの資料もつけるので見てみて下ださい


10月20日(月曜日)の2時ぐらいから桜ヶ丘にある鹿児島大学で「講義」という授業の一環で「講義」をしに私、おかあさん、竹上さん、加藤さんとしにいってきました。私は、障害者や保護者のまえで発表をしたことがありますが鹿児島大学の医学部の学生さんや先生たちのまえで発表をしたことははじめてでした。80人か90人のまえで発表しましたがとっても初めての経験だったしとっても緊張していました。
作業所やホームでのところの取材もあり、準備から当日まで緊張をしていました。協力してくれたみなさん本当に有り難うございました。当日の発表のなかみは、自己紹介やビデオ上映、私の発表、質問・応答などしました。私は緊張をしていたのですが学生さんをみわたす余裕がありました。みんな真剣に私の発表をきいてくれてくれました。私自身も「みんなに私の障害者をとおしてお話が出来てなにかゆうきづけられたんじゃないかなぁ」と感じています。発表ができてうれしかったです。私もぎゃくに勇気付けられました。みんなよろこんでくれました。私は医療のみんなが「なんでもすすんでお手伝いできる」方たちになってくれて将来、頑張っている姿がみれたらうれしいです。また講師の依頼がきたらどうしょう?といまから不安になっています。そのときには頑張ります。

 

2008年10月12日日曜日

入院生活のこと

   前回と同じ内容ですが、もう少し丁寧に振り
   返ってみました。 少し長くなりましたので、い
   くつかに区切っています。今回は、 始まりから、
   措置室での体験までです。

 私は、生活をずっと普通のように過ごしていてタンもあまり出ていなかったし普通にヘルパーさんともお出かけをやっていた。土曜日ぐらいから食欲もなくなっていた。四月十三日の日曜日の夜、食欲もなく、ぐあいがものすごくわるくなっていった。熱もそこまでたかくなかった。ヘルパーさんやホームスタッフが心配してケアが終わってからも遅くまでいてくれた。しかし、夜遅くに具合がものすごく悪くなったので竹上さんに電話してもらい、竹上さんにきてもらいました。ヘルパーさんやホームのスタッフに「救急車で行かないの」といわれ私は「あんまり救急車は好きじゃない。いやだ」といい、断ってしまいました。それで、竹上さんと一緒に車で植村病院に行った。車の中では、お話しながら病院に行きました。私は何かだんだんときつくなっていった。病院についてから、熱を測ったら40℃ちかくにあがっていた。呼吸困難にもなっていた。待合室で診察を待っていた。だけど、体がきつかったのでベッドのほうに寝かしてもらいました。女の先生に診察をしてもらいました。レントゲンをとったり、血を採ったりしました。結果、「肺炎」でした。採決した時は、なかなか出ないので股間からしました。とってもいたいでした。点滴を足の甲にして、酸素マスクもつけました。病室がいっぱいだったのかわからないけれど、処置室にねかされていました。竹上さんや玉利さん、中村さん、中野さんたちがかわりでついていてくれました。夜は、竹上さんや中村隆司さんがついてくれました。マッサージをしてくれたり、私の近くにいてくれました。夜遅くに中野さんが来てくれて3時くらいまでいてくれました。朝・昼間には、竹上さんや玉利さんがついてくれました。ある日のこと、私が寝ている処置室に、救急車で若い男の人が母親と運ばれてきました。私の隣のベッドで意識のない若い男の人がいて、先生たちが人工呼吸や心臓マッサージ、電気ショックをやっていましたが、その男の人は亡くなってしまいました。私は、隣に寝ていたので人工呼吸や心臓マッサージの音を聞いたり、亡くなる瞬間のツーの音も聞いていました。先生達のばたばたとスリッパの立てる音や亡くなった方の処置のカートを押す音、母親や家族の泣く声がしていました。私の寝ている隣だったので、玉利さんは「怖い」と云っていなくなってしまい、私一人きりになり、ものすごく「嫌で、怖くて、私が手遅れだったら今頃はあんなになっていただろう」ともっていました。でも、怖かったです。

2008年6月30日月曜日

肺炎になって入院生活をした日々

私は、それまでは通常のようにヘルパーをつかって生活していた。しかし4月13日の夜から39℃の高熱やたんがでてきて、夜遅くになりぐあいがどんどんわるくなったのでtkさんと一緒に車で植村病院にいきました。車の中では「気分がもっとわるくなりもどしそうになりました。」植村病院について、熱を測りながら待ち合いしつで呼ばれるまでまっていました。熱があがっていて、息もくるしくなっていくばかりでした。せんせいにみてもらったら「肺炎」と診断がでてしまいました。そのひから植村病院に入院をして酸素マスクや点滴をしました。病室があいていなかったせいか、しんさつしつにねかされていました。tkさんやtaさんやnrさん・nkさんがずっとつききりでついていてくれました。私は、ぐあいがわるかったせいか寝ていたりおきていたりして意識がもうろうとしていましたがいし表示はちゃんとしていたので大丈夫でした。ある日、私がもうろうとしているなかで、私の寝ているとなりのベットへ救急車で(若いのか、おじさんなのか分からない方)運ばれてきました。全く意識がなく運ばれて来ていて、そのうちに私のとなりのベットで亡くなってしまいました。私のねているとなりでは、看護ふさんや看護師さんが人口呼吸や心臓マッサージがおこなわれていたりその人が亡くなったので処置のおとや家族の泣き声がしていました。そのおとをきいて「私はものすごくこわかったし私も手遅れだったら今頃こんなじょうたになったのかなぁ」と不安になりました。もし、呼吸がもっとできなかったときには「人工呼吸機をします」といっていましたがだんだん意識がもどっていました。こうたいこうたいにスタッフついてくれていました。ここではむずかしいといわれて「次の日に病院を転院」しました。


救急車で「加治木町にある南九州病院に転院しました。ここでは、筋ジスの病院だし私も小さい時からのかかりつけだったのです。救急車で運ばれて、酸素が9で、点滴二本や酸素マスクでつながれていていました。まいにちのように診断や点滴のこうかんで毎日くりかえしの日々でした。点滴をしていたのでお風呂にもはいれませんでした。母親がずっとつききりでめんどうをみてくれました。よるになるとせきがひどくなり、なかなかねむれませんでした。吸引機をずっとしていて明け方ごろねむっていました。そうこうしているうちにだんだんと元気になり、ベットのうえにおきる練習をしていました。おんなの院長先生がきて「ごはんをたべてみるね」ということでお食事がでることになりました。なんにちもお食事をしていたある日、上手にたべていたのかと思いきや夕方になり今度は左側が「はいえん」になってしまいました。それからまた最初の時にもどってしまいました。先生のはんだんで「ご遠征肺炎じゃないかな」と言っていました。まいにちのように面会にたくさんきてくれました。飲み込みかたをみてくれるせんせいにもみてもらいました。飲み込みかたが人よりよくないといわれ、お食事はむりでしょう。でも、プリンやゼリーなどは大丈夫でしょう。」といわれました。それから、元気がでて、肺炎もなおり、点滴がはずれ、お風呂にはいってもいい許可がでて、看護ふさんにいれてもらいました。久しぶりの入浴だったのできもちがいいてした。点滴につながれているときは「もうだめかな」とか思っていた。元気になったらたいくつになってきた。せんせいがそとにもでていいてことになり、「電動車いす」にのれるように回復までいきました。先生は、「のど切開や遺漏」を進めましたが「それはまだしたくない」とことわりました。そのかわり、お食事がとれないので「鼻チュウブ」をいれてみてはとすすめてくれました。いよいよ鼻チュウブをいれるひになりました。初めての経験だったし緊張していました。おんなの院長先生が鼻チュウブを胃までいれるのですがなかなかはいりません。口の中にチューブがでてくるしのどをきずつけて血はでるし最悪の経験でした。おんなの院長先生はできなかったので看護ふさんにいれてもらいました。一発ではいりました。その日は胸や胃、のどなどが痛い感じがしたりむかつきがあったけれど夜だけ「注入食」がはじまりました。次の日から朝・晩「注入食」になりました。母親も覚えないといけなかったので看護ふさんにならいやっていました。車椅子にものれるようになり、車椅子のうえでものむ練習をしました。

病院ないをお散歩や看護ふさんのへやにいきました。看護ふさんたちが「あけみちゃんは寝たっきりかと思った。車椅子にのっていると別人の人かと思ったよ。」といいながらわらわせてくれました。とってもやさしい看護ふさんもいれば、厳しい看護師さんもいました。看護師さんに「私の退院はいつになるのですか」ときいていたら何回もまだだよ。といいながらも看護ふさんとわらいの日々でした。看護長さんに何回も退院はいつになるのときいていたらいよいよ六月28日の夕方にきまりましました。退院がきまったときは「ものすごくうれしかったし早くみんなのところにかえりたかったです。」退院がきまったとき、お友達やいきセンのスタッフや仲間、ホームのスタッフのみんなに伝えたらがよろこんでくれた。うれしいです。
いよいよ退院をするひになりました。看護長さんに「さみしくなる。またもどってきてね」とか言ってくれたけれど、私はうれしやらはずかしいやらなきもちでした。

こうして、肺炎になり、一ヶ月半の入院生活をすごしたのですが私も入院していて、いろんな経験をしたりいろいろとかんかえた入院生活でした。いろいろと考えたこととは、「いのち・人間の生命」をあらためて考えされました。お見舞いや毎日のようにきてくれたみなさん本当に有り難うございました。のきもちとみんなの励ましの声や姿がみれてとってもうれしいです。心配ばかりさせてごめんね。でも、自分のペースでこれからも頑張っていくしいっぱいいっぱい迷惑ばかりかけると思うのでなにとぞよろしくおねがいしますね。

2008年2月29日金曜日

25周年記念祝賀会の感想

2月25日の月曜日の6時ぐらいから9時すぎまで「むぎのめの25周年記念祝賀会」がサンロイヤルホテルで行われました。私もおめかしして、参加してきました。
中身的にはとってもよかったのですが来賓の方達が多かったせいか、わたしが座ったテーブルがはしっこだったのでぶたいがよくみえなかったしおんせいが少々ききとりにくかったです。それから、お料理のほうがホテルの料理やおかあさんたちの手づくりもおいしかったけれど私的には、かたくてあんまりたべませんでした。でも、25周年記念祝賀会に参加して、「むぎのめの」のことがあらためて生い立ちがわかったような気がします。
私もむぎのめのいちいんになれて幸せです。むぎのめがたちあげたころから利用している仲間の方達と共にいまもはたらけて私もとってもうれしいです。
祝賀会にでて、もうひとつおもったことがあります。それは、「ゆめのまちができたときにした」祝賀会を思い出しました。祝賀会でいろんな方達がきていて、お話が出来てとってももりあがっていてとっても楽しかったです。参加されたみなさんお疲れ様でした。これからも「自立支援法にまけず、大勢の方達の力を借りておおいに頑張っていきましょうね。エイエイオー★

2008年2月5日火曜日

長崎大会の感想

2月2日・3日の1泊2日で「きょうされん全九州大会in長崎大会」に参加してきました。
朝4時半におきて、あゆみに6時集合し6時はんすぎに長崎大会へ出発しました。出発したころ雨模様でしたが長崎に着く頃には「小雨」でした。いろんな事情で出発がおくれて長崎大会につくのがおそくなり、高速道路にのり、サービスエリアでおひるごはんをたべながらいきました。私たちがハウステンボスに着いた時には「はじまっていました。」
最初は、いろんな作業所の紹介のビデオ紹介をしていました。私もみました。「いろんな作業所で頑張っている作業風景をみて、頑張っているなぁ。私も「障害者自立支援法」にまけずに作業を頑張ろうとおもいました。その後に分科会にわかれました。私は、「観光分科会」にさんかしました。ボランティアさんとハウステンボスの園内を散策しましたが雨模様であんまり観光ができませんでした。でも、チョコレートハウスにいったり、芸人さんとふれあったりしていました。分科会がおわり、よるの「懇親会」がはじまりました。ものすごいごちそうがあり、各九州地区の出し物がありました。ものすごくもりあがっていてとってもたのしかったよ。ホテルに帰る際に「雨模様の花火」があがり、ハウステンボスの夜景がとってもきれいでした。ホテルにいきました。部屋がとってもきれいで、へやが「四人べや」でした。わたし・k.kさん・T.rさん・T.Tさんでした。あくるあさが早いのでお風呂にはいり、みんなぐっすり寝ました。
2日目は、ホテルのバイキングをたべてから、大会の会場まで歩きながら散策していきました。とっても1日目が雨模様だったので2日目は天気が晴れていたのできもちがいいてした。
私はまた2日目も「観光分科会」に参加して「佐世保のまつり」のダンスをボランティアとしてとってもはじめておどったので楽しかったです。長崎大会がおわって私も閉会式に出て、分科会の紹介やアピールがあったりしました。1泊2日の「きょうされんin長崎大会」に参加して、とってもたのしかったし勉強になり、いろんな作業所のひとたちとふれあいがもてて、い体験ができました。つかれたけれど楽しかった。
来年は、「熊本大会」なのでまた参加してみたいです。

2008年1月29日火曜日

新年会の感想

むぎのめの里の「新年会」を1月26日土曜日に12時から2時ぐらいまでしました。
入居者10名とホーム職員とヘルパーさん3名の計17名の参加して「虹の食堂のオードブル&ジュース」を囲みながらお食事をしました。みんなワイワイガヤガヤ言いながらもものすごい料理をめのまえにして満喫していました。私自身が体調をくずして「準備をてつだうことができず本当にごめんね。」のきもちでいっぱいです。準備からやってくださった「kさん、tさん」そして、「おにぎりをあさからにぎってくださった方々本当に有り難うございました。おつかれさまでした。
新年会ができて、またむぎのめの里の皆でいろいろと経験したり、いろんなハプニングがおこるとおもいますが楽しく・協力しながら毎日頑張りましょう。

2008年1月7日月曜日

中国松林雑技団

1月5日の雑技団の感想
私は、中国松林雑技団をみにいきました。はじめてみにいきました。最初は、なんか「すごい」とか「少々退屈ぎみ」もありましたがなかまたちと「交流会のときにきていたこだよね」とかいいながらみていました。私もなんか興奮していたのですが「はらはら、どきどき」しました。一番びっくりしはらはら、どきどきしたのは、人間がはりのうえにねて、またそのうえにいたをのせ、人間がよこたわってあついいたをかなづちでわる演技でした。またみにいきたいです。

2008年1月6日日曜日

私の正月やすみの感想

新年あけましておめでとうございます。

昨年は大変お世話になり有り難うございました。今年もなにとぞよろしくね。

私も正月は、ゆっくりしました。今年もみんなでたのしく「チューチュー」なきながら一年間頑張りましょう。



1月3日の木曜日に父のほうの「Fさん」いとこ会が桜島のレインボー桜島で行われました。それに家族さんかしてきました。ごちそうをたべながらゲームをしながら集まり私もおばちゃんたちとおはなしをしました。とっても楽しかったよ。



1月6日日曜日は、母のおじいちゃんのいえにあそびにいきました。おおくちです。いとこの方々がきていて、「おなべ・おさしみ・とりのにもの・ぎょうざ」のごちそうがありみんなでえんかいでした。

いよいよねずみ年になりましたがお元気にしていましたか?しんねんがあけて今日からお仕事がはじまりましたね。どうだったですか?各作業所で初詣にでかけるとおもいますが「どんなおねがいごと」をするのでしょうか?みなさんは、おみくじはなにがでますか?私は、「大吉や中吉がよくでます。ことしはなにがで゛るかおたのしみです。
下記により詩を一句をかきます

初詣 賽銭箱におかねをいれおまいりする            ねずみ年 十二支の一番はじめ
「今年もいいことがありますように」いのる             みんなで「チューチュー」ないて
かみさまもなにとぞしあわせなのかなとおもうこの頃。      一年頑張りましょう。