2008年10月22日水曜日

鹿児島大学で講義に参加して

(下記に書いてある文書が当日鹿児島大学で講義でよんだ文書です。)


はじめまして 私のなまえは古川明美です。よろしくおねがいします。
いまから、私の自己紹介をしたいとおもいます。
私は、昭和53年7月21日 2600gで産まれました。
生まれつき「筋ジストロフィ」という障害をもって産まれました。
先生からは、母親に「このお子さんは、3、4歳まで生きられませんよ」と言われたそうです。
母親や父親は、きいて泣いたそうです。
それでも、母は、一生懸命、私を育ててくれました。あるけるようになるか?という検査入院をして手術をしたことがあります。その時のことは、あまりおぼえていません。
それから、私が幼稚園に通う前に母は妊娠をし「妹」が産まれました。私と同じ障害をもっていました。
私は妹ができてうれしかったです。妹と一緒に幼稚園に母親とかよいました。幼稚園は、障害児がいけるところでした。幼稚園では、保母さんとお散歩をしたり、おゆうぎをしたり、おかあさんたちの手づくりの給食をたべたり、月ごとの行事などをして楽しかったです。でも、私が通っていた幼稚園のとなりが普通の保育園でした。お友達が外を走りまわっていたり、遊具であそんだりしているところをみると、私は、こんなことをおもいました。「外で遊んでみたい・なんで走れるだろう。なんで障害児にうまれたんだろう」とおもいました。その頃は、バギーで行っていました。幼稚園のときに「くるまいす」をつくりました。
幼稚園を無事に卒園しました。


養護学校にあがり、学校に12年間かよいました。
小学校6年間、中学校3年間、高等部3年間 通学でかよいました。
小学校生活の中で楽しかったことは、勉強もたのしかったのですが6年生でいく「大分、熊本へ行く修学旅行」でした。運動会や学習発表会も楽しかったです。かなしかったことは、六年生の2学期にとってもかわいくて、なんでもお手伝いしてくれる、やさしい女のお友達がいましたが病気をこじらせて亡くなってしまいました。そのときはかなしかったです。くやしかったことは、学習発表会の時に先生から「せりふを言うのがゆっくりと」といわれたことです。運動会では、かけっこがびりになってさいごまでこいだことをおぼえています。うれしかったことは、五年生の時にはじめての「転校生」がきたことです。一緒にお勉強をしました。
無事に小学校6年間を卒業しました。

中学校生活のなかで楽しかったことは、3年生でいった「長崎、福岡の修学旅行」でした。くやしかったことは、生徒会に何回も立候補しましたがおっこちたこともあったことです。
無事に中学校3年間を卒業しました。
いよいよ義務教育がおわり高等部に入学しました。
高等部に入る時には、面接や試験などをしました。面接では、校長先生や、高等部の先生たちから「質問」がありました。試験では、教科ごとの試験でした。それをうけて、無事に合格し、高等部3年かよいました。高等部3年間の中で楽しかったことは、やっぱし3年生でいった「東京への修学旅行」でした。かなしかったこと・くやしかったことは、学習発表会の時に私がものすごくやりたかった役になれなくて先生を困らせ「学校拒否」をしたことです。むずかしかったことは、教科ごとに先生がかわり「勉強」がよくわかりませんでした。私は12年間の学校生活を送ってきて、楽しかったですがものすごくいやもありました。「早く卒業したい」とか「早く髪の毛をそめてみたい」と感じていました。
無事に高等部3年間を卒業しました。

養護学校を12年間通っていて卒業したときは、ものすごくさみしく感じたし先生に迷惑や心配ばかりかけたから、やりなおしができたらいいなぁとおもいました。
卒業してしばらくしてから、麦の芽福祉会の「虹のセンター」に1年ちょっと通所していました。そこでは、ワープロで住所打ちやバザーのねつけなどのお仕事をしていました。虹のセンターに就職したときが決まった時には、「幼稚園や養護学校のときの先ぱいや後輩とまた一緒にお仕事ができてよかった。」とかんじました。「初給料」をもらいうれしかったことをおぼえています。それからしばらくしてから、「いきいきセンター麦の芽」が開所して、私も虹のセンターから作業所を移りました。異動した時に「おおきな建物でどんなお仕事ができるのだろう。」とわくわくしました。開所してからずっと創作班でお仕事をしていました。コーヒーやパソコンうちなどしていました。今も、いきいきセンター麦の芽に通所しています。
私は9年間、創作班で作業していて「ちがう班での作業がしてみたい」というきもちがあり、今年、念願だった食品加工班に入り作業をしています。私が担当するところは、クッキーの作業では、卵ほぐしやトッピングの材料を数えたり、賞味期限がきをしたりします。お惣菜では、材料をよんだり、おもさを量ったり、うりこになったりと、ものすごく楽しいし売れた時にはうれしいです。作業や作業所での生活の中でくやしかったことは、やりたいことができなかったり、自分にあたえられたお仕事が1日で終わらなかった時です。
私は、家族とずっと住んでいて、学生の頃からいままで「ずっと1人暮らしをしてみたい」と思い続けてきました。そう思い続けていて平成18年4月、ようやく私の念願だった「1人暮らしを」する夢がかないました。私は親元から離れ、ヘルパーさんや職員のみんなと楽しく過ごせています。はじめは、なれなくて病気がちになり家に帰ったおもいでがあります。1人暮らしを決めたのは、「お友達やいろんな人とくらしてみたい」「親からはなれてくらしてみたい」「自分のしたいことや自由にうごいてみたい」といろいろなおもいがあったからです。最初は、母親は賛成していたけれど父親は、「ちょっと大丈夫か?」とものすごく心配していました。でも今は、いつも応援してくれています。今も、1人暮らしをつづけていても作業所にいきながら、楽しく過ごせて、1人暮らしを毎日まんきつした生活をおくっています。これも、おおぜいの方達のおかげだし麦の芽福祉会のなかまにはいれて、とってもしあわせです。
私はまいにちのようにお仕事や1人暮らしの生活を普通のようにしていました。
そんな中、私は「肺炎」になって一ヶ月半の入院していました。毎日てんてきにおわれ、起きられないぐらい、くるしいおもいをしました。毎日のように、たちかわりおみまいにこられ、「はげましてくれたり」ずっと職員がついていてくれました。私自身も肺炎で入院したことはありませんでした。鼻チューブになり、かぞくやおおぜいの協力のおかげで、ぶじに退院ができ、お仕事や1人暮らしもかいふくして、いまでもみんなに感謝しています。そして、いまは鼻チューブになり、毎日注入食になっています。実家に帰ってから口から「ミキサー食」をたべています。私は今は、生まれてきてよかったと感じています。
これが、わたしが産まれてからいままでの生きてきた日々の商会でした。

さいごになりましたが「みんなにメッセージがあります。
今日私の講義を聞いていただきありがとうございました。私も生きてきた中でいろんな体験をしてきましたが、障害を持ちながらも1人では何もかもできないと思ってたけれどみんなが「たすけてくれる」し「自分でもできるところは頑張っていけるんだ」と今日の講義であらためてかんじました。障害があってもなくてもみんなと一緒の生活ができるし障害者は明るくてお話がとっても大好きです。これから障害者やお年寄りをみかけたらどんどんとお話やお手伝いをしてあげたらうれしいです。
みんなは、いま勉強がとってもむずかしいと思いますが就職して、いろんなところに行かれ、いろんな経験をすると思いますが頑張って下ださい私は、鹿児島大学でおおぜいのまえで発表ができて、みなさんに私のような障害者にふれていただけて、発表を聞いていただけて嬉しく思います本当に有り難うございました。みなさんもまたどんどん障害者と交流ができたらうれしいです。私もこれからも障害者らしく自分の体の体調にあわせながら、がんばりたいとおもいます。これからもよろしくおねがいします。これからも今日は聞いていただき本当に有り難うございました。
他にも自己紹介や自分のプログの資料もつけるので見てみて下ださい


10月20日(月曜日)の2時ぐらいから桜ヶ丘にある鹿児島大学で「講義」という授業の一環で「講義」をしに私、おかあさん、竹上さん、加藤さんとしにいってきました。私は、障害者や保護者のまえで発表をしたことがありますが鹿児島大学の医学部の学生さんや先生たちのまえで発表をしたことははじめてでした。80人か90人のまえで発表しましたがとっても初めての経験だったしとっても緊張していました。
作業所やホームでのところの取材もあり、準備から当日まで緊張をしていました。協力してくれたみなさん本当に有り難うございました。当日の発表のなかみは、自己紹介やビデオ上映、私の発表、質問・応答などしました。私は緊張をしていたのですが学生さんをみわたす余裕がありました。みんな真剣に私の発表をきいてくれてくれました。私自身も「みんなに私の障害者をとおしてお話が出来てなにかゆうきづけられたんじゃないかなぁ」と感じています。発表ができてうれしかったです。私もぎゃくに勇気付けられました。みんなよろこんでくれました。私は医療のみんなが「なんでもすすんでお手伝いできる」方たちになってくれて将来、頑張っている姿がみれたらうれしいです。また講師の依頼がきたらどうしょう?といまから不安になっています。そのときには頑張ります。

 

2008年10月12日日曜日

入院生活のこと

   前回と同じ内容ですが、もう少し丁寧に振り
   返ってみました。 少し長くなりましたので、い
   くつかに区切っています。今回は、 始まりから、
   措置室での体験までです。

 私は、生活をずっと普通のように過ごしていてタンもあまり出ていなかったし普通にヘルパーさんともお出かけをやっていた。土曜日ぐらいから食欲もなくなっていた。四月十三日の日曜日の夜、食欲もなく、ぐあいがものすごくわるくなっていった。熱もそこまでたかくなかった。ヘルパーさんやホームスタッフが心配してケアが終わってからも遅くまでいてくれた。しかし、夜遅くに具合がものすごく悪くなったので竹上さんに電話してもらい、竹上さんにきてもらいました。ヘルパーさんやホームのスタッフに「救急車で行かないの」といわれ私は「あんまり救急車は好きじゃない。いやだ」といい、断ってしまいました。それで、竹上さんと一緒に車で植村病院に行った。車の中では、お話しながら病院に行きました。私は何かだんだんときつくなっていった。病院についてから、熱を測ったら40℃ちかくにあがっていた。呼吸困難にもなっていた。待合室で診察を待っていた。だけど、体がきつかったのでベッドのほうに寝かしてもらいました。女の先生に診察をしてもらいました。レントゲンをとったり、血を採ったりしました。結果、「肺炎」でした。採決した時は、なかなか出ないので股間からしました。とってもいたいでした。点滴を足の甲にして、酸素マスクもつけました。病室がいっぱいだったのかわからないけれど、処置室にねかされていました。竹上さんや玉利さん、中村さん、中野さんたちがかわりでついていてくれました。夜は、竹上さんや中村隆司さんがついてくれました。マッサージをしてくれたり、私の近くにいてくれました。夜遅くに中野さんが来てくれて3時くらいまでいてくれました。朝・昼間には、竹上さんや玉利さんがついてくれました。ある日のこと、私が寝ている処置室に、救急車で若い男の人が母親と運ばれてきました。私の隣のベッドで意識のない若い男の人がいて、先生たちが人工呼吸や心臓マッサージ、電気ショックをやっていましたが、その男の人は亡くなってしまいました。私は、隣に寝ていたので人工呼吸や心臓マッサージの音を聞いたり、亡くなる瞬間のツーの音も聞いていました。先生達のばたばたとスリッパの立てる音や亡くなった方の処置のカートを押す音、母親や家族の泣く声がしていました。私の寝ている隣だったので、玉利さんは「怖い」と云っていなくなってしまい、私一人きりになり、ものすごく「嫌で、怖くて、私が手遅れだったら今頃はあんなになっていただろう」ともっていました。でも、怖かったです。