2008年10月12日日曜日

入院生活のこと

   前回と同じ内容ですが、もう少し丁寧に振り
   返ってみました。 少し長くなりましたので、い
   くつかに区切っています。今回は、 始まりから、
   措置室での体験までです。

 私は、生活をずっと普通のように過ごしていてタンもあまり出ていなかったし普通にヘルパーさんともお出かけをやっていた。土曜日ぐらいから食欲もなくなっていた。四月十三日の日曜日の夜、食欲もなく、ぐあいがものすごくわるくなっていった。熱もそこまでたかくなかった。ヘルパーさんやホームスタッフが心配してケアが終わってからも遅くまでいてくれた。しかし、夜遅くに具合がものすごく悪くなったので竹上さんに電話してもらい、竹上さんにきてもらいました。ヘルパーさんやホームのスタッフに「救急車で行かないの」といわれ私は「あんまり救急車は好きじゃない。いやだ」といい、断ってしまいました。それで、竹上さんと一緒に車で植村病院に行った。車の中では、お話しながら病院に行きました。私は何かだんだんときつくなっていった。病院についてから、熱を測ったら40℃ちかくにあがっていた。呼吸困難にもなっていた。待合室で診察を待っていた。だけど、体がきつかったのでベッドのほうに寝かしてもらいました。女の先生に診察をしてもらいました。レントゲンをとったり、血を採ったりしました。結果、「肺炎」でした。採決した時は、なかなか出ないので股間からしました。とってもいたいでした。点滴を足の甲にして、酸素マスクもつけました。病室がいっぱいだったのかわからないけれど、処置室にねかされていました。竹上さんや玉利さん、中村さん、中野さんたちがかわりでついていてくれました。夜は、竹上さんや中村隆司さんがついてくれました。マッサージをしてくれたり、私の近くにいてくれました。夜遅くに中野さんが来てくれて3時くらいまでいてくれました。朝・昼間には、竹上さんや玉利さんがついてくれました。ある日のこと、私が寝ている処置室に、救急車で若い男の人が母親と運ばれてきました。私の隣のベッドで意識のない若い男の人がいて、先生たちが人工呼吸や心臓マッサージ、電気ショックをやっていましたが、その男の人は亡くなってしまいました。私は、隣に寝ていたので人工呼吸や心臓マッサージの音を聞いたり、亡くなる瞬間のツーの音も聞いていました。先生達のばたばたとスリッパの立てる音や亡くなった方の処置のカートを押す音、母親や家族の泣く声がしていました。私の寝ている隣だったので、玉利さんは「怖い」と云っていなくなってしまい、私一人きりになり、ものすごく「嫌で、怖くて、私が手遅れだったら今頃はあんなになっていただろう」ともっていました。でも、怖かったです。

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