2008年6月30日月曜日

肺炎になって入院生活をした日々

私は、それまでは通常のようにヘルパーをつかって生活していた。しかし4月13日の夜から39℃の高熱やたんがでてきて、夜遅くになりぐあいがどんどんわるくなったのでtkさんと一緒に車で植村病院にいきました。車の中では「気分がもっとわるくなりもどしそうになりました。」植村病院について、熱を測りながら待ち合いしつで呼ばれるまでまっていました。熱があがっていて、息もくるしくなっていくばかりでした。せんせいにみてもらったら「肺炎」と診断がでてしまいました。そのひから植村病院に入院をして酸素マスクや点滴をしました。病室があいていなかったせいか、しんさつしつにねかされていました。tkさんやtaさんやnrさん・nkさんがずっとつききりでついていてくれました。私は、ぐあいがわるかったせいか寝ていたりおきていたりして意識がもうろうとしていましたがいし表示はちゃんとしていたので大丈夫でした。ある日、私がもうろうとしているなかで、私の寝ているとなりのベットへ救急車で(若いのか、おじさんなのか分からない方)運ばれてきました。全く意識がなく運ばれて来ていて、そのうちに私のとなりのベットで亡くなってしまいました。私のねているとなりでは、看護ふさんや看護師さんが人口呼吸や心臓マッサージがおこなわれていたりその人が亡くなったので処置のおとや家族の泣き声がしていました。そのおとをきいて「私はものすごくこわかったし私も手遅れだったら今頃こんなじょうたになったのかなぁ」と不安になりました。もし、呼吸がもっとできなかったときには「人工呼吸機をします」といっていましたがだんだん意識がもどっていました。こうたいこうたいにスタッフついてくれていました。ここではむずかしいといわれて「次の日に病院を転院」しました。


救急車で「加治木町にある南九州病院に転院しました。ここでは、筋ジスの病院だし私も小さい時からのかかりつけだったのです。救急車で運ばれて、酸素が9で、点滴二本や酸素マスクでつながれていていました。まいにちのように診断や点滴のこうかんで毎日くりかえしの日々でした。点滴をしていたのでお風呂にもはいれませんでした。母親がずっとつききりでめんどうをみてくれました。よるになるとせきがひどくなり、なかなかねむれませんでした。吸引機をずっとしていて明け方ごろねむっていました。そうこうしているうちにだんだんと元気になり、ベットのうえにおきる練習をしていました。おんなの院長先生がきて「ごはんをたべてみるね」ということでお食事がでることになりました。なんにちもお食事をしていたある日、上手にたべていたのかと思いきや夕方になり今度は左側が「はいえん」になってしまいました。それからまた最初の時にもどってしまいました。先生のはんだんで「ご遠征肺炎じゃないかな」と言っていました。まいにちのように面会にたくさんきてくれました。飲み込みかたをみてくれるせんせいにもみてもらいました。飲み込みかたが人よりよくないといわれ、お食事はむりでしょう。でも、プリンやゼリーなどは大丈夫でしょう。」といわれました。それから、元気がでて、肺炎もなおり、点滴がはずれ、お風呂にはいってもいい許可がでて、看護ふさんにいれてもらいました。久しぶりの入浴だったのできもちがいいてした。点滴につながれているときは「もうだめかな」とか思っていた。元気になったらたいくつになってきた。せんせいがそとにもでていいてことになり、「電動車いす」にのれるように回復までいきました。先生は、「のど切開や遺漏」を進めましたが「それはまだしたくない」とことわりました。そのかわり、お食事がとれないので「鼻チュウブ」をいれてみてはとすすめてくれました。いよいよ鼻チュウブをいれるひになりました。初めての経験だったし緊張していました。おんなの院長先生が鼻チュウブを胃までいれるのですがなかなかはいりません。口の中にチューブがでてくるしのどをきずつけて血はでるし最悪の経験でした。おんなの院長先生はできなかったので看護ふさんにいれてもらいました。一発ではいりました。その日は胸や胃、のどなどが痛い感じがしたりむかつきがあったけれど夜だけ「注入食」がはじまりました。次の日から朝・晩「注入食」になりました。母親も覚えないといけなかったので看護ふさんにならいやっていました。車椅子にものれるようになり、車椅子のうえでものむ練習をしました。

病院ないをお散歩や看護ふさんのへやにいきました。看護ふさんたちが「あけみちゃんは寝たっきりかと思った。車椅子にのっていると別人の人かと思ったよ。」といいながらわらわせてくれました。とってもやさしい看護ふさんもいれば、厳しい看護師さんもいました。看護師さんに「私の退院はいつになるのですか」ときいていたら何回もまだだよ。といいながらも看護ふさんとわらいの日々でした。看護長さんに何回も退院はいつになるのときいていたらいよいよ六月28日の夕方にきまりましました。退院がきまったときは「ものすごくうれしかったし早くみんなのところにかえりたかったです。」退院がきまったとき、お友達やいきセンのスタッフや仲間、ホームのスタッフのみんなに伝えたらがよろこんでくれた。うれしいです。
いよいよ退院をするひになりました。看護長さんに「さみしくなる。またもどってきてね」とか言ってくれたけれど、私はうれしやらはずかしいやらなきもちでした。

こうして、肺炎になり、一ヶ月半の入院生活をすごしたのですが私も入院していて、いろんな経験をしたりいろいろとかんかえた入院生活でした。いろいろと考えたこととは、「いのち・人間の生命」をあらためて考えされました。お見舞いや毎日のようにきてくれたみなさん本当に有り難うございました。のきもちとみんなの励ましの声や姿がみれてとってもうれしいです。心配ばかりさせてごめんね。でも、自分のペースでこれからも頑張っていくしいっぱいいっぱい迷惑ばかりかけると思うのでなにとぞよろしくおねがいしますね。